アプリ一つで鉄道やバスなど様々な交通手段を利用できる移動サービスMaaSへの取り組みが鉄道会社を中心に広がっている。小田急電鉄は神奈川県の江の島・鎌倉などで鉄道会社が異なる複数の路線を利用したり、沿線の店舗での優待を受けられたりできるデジタルチケットを発売した。千葉県などで鉄道事業や不動産開発を展開する山万は乗客が「顔パス」で鉄道やバスを利用できるMaaSの実証実験を行っている。新たなデジタル未来都市実現の可能性を秘めるMaaSはエンジニアの仕事にはどんな影響を及ぼすのだろうか?
小田急電鉄が2021年11月、「小田急線の全区間で IC カード利用時の子ども運賃を 2022 年春から一律 50 円にする」と発表したニュースは新聞やテレビなどの多くのメディアに取り上げられた。
話題になったのも当然だろう。6歳以上12歳未満の子どもを対象に初乗り運賃の63円を50円に引き下げ、しかも全区間を50円で乗り降りできるようにするのだ。この運賃値下げによって例えば最長区間の新宿駅・小田原駅間では、これまで往復 890 円かかっていたのが 100円と9割近くも安くなる。今後は通学定期券の引き下げも検討すると言う。
しかし小田急線が今、矢継ぎ早に打ち出している取り組みはこれだけではない。話題性こそ「子ども運賃一律50円」よりは劣るかもしれないが、将来の公共交通機関のあり方や、交通機関を核にした街づくりにも影響を与える衝撃度では運賃値下げにも勝る新たなサービスに乗り出しているのだ。
2021年11月末、小田急電鉄は「デジタル江の島・鎌倉フリーパス」を発売した。
スマートフォンなどから購入し、画面を提示して利用するデジタルチケットだが、紙の切符をデータに置き換えただけではない。スマホ一つで、鉄道会社が異なる複数の路線を利用したり、沿線の施設での優待を受けられたりできるチケットだ。
具体的には小田急線の藤沢駅・片瀬江ノ島駅間と、小田急グループの江ノ島電鉄が運行する江ノ電の全線が1日乗り放題なのに加え、周辺の寺院やカフェなど約25の施設・店舗の優待も受けられる。さらに乗車駅から藤沢駅までの小田急線の往復乗車券が割引になる。
11月上旬には埼玉県の秩父地区でも、同地区を中心に鉄道やバス、観光事業を手がける秩父鉄道と連携して、同様のデジタルチケットを発売した。スマホなどから購入し、画面を提示すると、秩父鉄道全線が何度でも自由に乗り降りでき、周辺の飲食店舗や温浴施設など約50店舗で優待を受けられる。
利用者の利便性を高め沿線に経済効果をもたらすMaaS
小田急電鉄の新サービスはMaaS(マース)と呼ばれる。
MaaSとは、スマホのアプリ一つで鉄道や地下鉄、バス、タクシーなど様々な交通手段を利用できるようにする新たな移動サービスだ。アプリに出発地と目的地を入れると、最適なルートと鉄道や地下鉄、バスなど移動に必要な交通機関を一括して検索してくれるだけでなくチケットの予約や決済もできる。
MaaS の利点はいくつもある。利用者にとっては交通機関ごとにチケットを予約・決済する必要がなく、またスマホ一つで複数の交通手段を切れ目なく利用できるので移動の利便性が格段に高まる。一方、交通機関にとっては複数の交通手段が連携することで利用者増を期待できる。
またMaaSのアプリを使って沿線の様々な施設の優待を利用者が受けられるようにすれば、地域全体の魅力向上につながり、経済的な恩恵は交通機関以外にも観光や外食、小売り、サービスなど様々な業種に及ぶ。
ちなみにMaaSは「モビリティー・アズ・ア・サービス」の頭文字をとった略語で、直訳すると「サービスとしての移動」となる。その概念が知られるようになったきっかけはフィンランドの取り組みだった。同国は 2016 年、首都ヘルシンキの電車やタクシー、バス、レンタカーなどの交通機関をアプリ一つで乗り放題にする施策を世界に先駆けて実行した。これが市民に好評だったことからMaaSの概念や利点が世界中に浸透していったのだ。
そして今、日本でもいよいよMaaSが離陸しようとしている。小田急電鉄以外にも多くの鉄道会社が他の公共交通機関も巻き込みながらMaaSを打ち出し始めたのだ。
エリア内の鉄道やバスを“顔パス” で利用するMaaSも
中でも先進的かつユニークなのは千葉県や神奈川県などで鉄道事業や不動産開発を展開する山万(東京・中央)の取り組みだろう。
山万は2021年9月15日から2022年1月31日まで、千葉県佐倉市内のニュータウンであるユーカリが丘で、乗客が「顔パス」でニュータウン内を周遊する鉄道のユーカリが丘線や路線バスを利用できるMaaSの実証実験を行っている。
その仕組みはこうだ。利用者は専用アプリをスマホにダウンロードして顔写真や決済用のクレジットカード情報を登録する。一方、山万は、ユーカリが丘線では各駅の改札前にセンサーを、路線バスでは車内にタブレット型の顔認証システムを設置し、アプリの利用者を認証する。
利用者は一度アプリに情報を登録すれば、以後はチケットや定期券を使わずに乗車でき、運賃が自動的に決済される。
山万はユーカリが丘を半世紀にわたり開発してきた。今では鉄道やバスを運営するだけでなく高齢者施設や病院なども保有する。今回の実証実験は地域住民100人が対象だが、数年以内にユーカリが丘の全世帯(2021年11月末時点で約7,800)に向けて本格稼働させたいと言う。
首都圏以外でも鉄道会社によるMaaS導入に向けた動きが広がっている。名古屋鉄道は愛知県岡崎市で、2022年1月7日から2月6日まで、鉄道やバス、タクシーなどを組み合わせた移動を提案するMaaSのアプリを試験運用する。
アプリに「岡崎公園」や「まるや八丁味噌蔵」など岡崎市内の観光名所の名前を打ち込むと、鉄道やバス、タクシー、シェアサイクルなどを組み合わせた移動方法だけでなく、主要駅や駐車場の混雑具合も表示される。さらに飲食店などで優待を受けられるクーポンも得られる。
名鉄は検索ワードやクーポンの利用状況などを今後のアプリの改良に反映させ、岡崎市以外の沿線地域への展開を検討していると言う。
九州でもJR九州と西日本鉄道が提携し、MaaSの取り組みを拡大させている。
北九州市のJR下曽根駅でJR九州の鉄道と西日本鉄道のバスのダイヤを調整し、双方の時刻表を駅のモニター画面やバスの車内で表示したのを皮切りに、トヨタ自動車系のアプリ「マイルート」を活用し、鉄道とバスだけでなくカーシェアやシェア自転車などの移動手段を含めた最適なルートを検索できるようにした。
MaaS推進の背景には鉄道会社の危機感が
MaaS推進の背景にあるのは鉄道会社の危機感だ。鉄道会社は2021年度もJR・私鉄問わずコロナ禍に苦しめられた。
JR4社(JR東日本、JR東海、JR西日本、JR九州)を合わせた最終損益は2022年3月期も前期に続いて赤字の見通しだ。赤字金額はJR東日本が1600億円、JR西日本が1165億円、JR 東海が300億円を見込んでいる。JR九州だけは最終黒字をかろうじて確保する見通しだが、黒字額は当初の129億円から34億円へと下方修正した。
コロナ収束後も楽観できない。コロナ禍で広がったリモートワークや出張に代えてのオンライン会議はコロナ収束後も一定程度定着し、ビジネスパーソンの鉄道利用はコロナ前に戻らない可能性がある。
加えて各社は少子高齢化による沿線人口の減少に直面している。人口が集中する首都圏の鉄道会社も例外ではない。小田急電鉄では東京と神奈川の沿線27市区町村の人口が2020年度の約520万人をピークに、2035年度には500万人強にまで減少すると推計している。手をこまぬいていれば各社ともに利用者の減少による減収を免れない。
そこでMaaSによって鉄道やバスの利用者を増やし、かつ沿線の魅力を高めることで住民の誘致に結び付けようとしているのだ。
では鉄道会社のMaaSはエンジニアの仕事にどんな影響を及ぼすだろうか?
各社の取り組みが本格化するにつれて、MaaSは今後いっそう進化・発展するに違いない。アプリ一つで利用・決済できる交通手段は、鉄道やバス、タクシーだけではなく、レンタカーやレンタサイクルなどへと広がっていくだろう。
優待を受けられる店舗や施設、サービスにしても、観光客向けには寺院や美術館、ホテルなど観光客が利用するあらゆる施設へ、沿線住民向けにはスーパーや美容院、学習塾など日常的に利用する施設へと拡大していくはずだ。将来的にはアプリ一つでホテルの宿泊料金やスーパーでの買い物を決済できるようになるだろう。鉄道会社を核にした経済圏あるいはMaaSが拓く「デジタル未来都市」誕生の可能性さえ秘めていると言ってもいい。実際、ユーカリが丘でMaaSの実証実験を行っている山万は、鉄道やバスを顔パスで利用できるのはあくまで今後への第一歩の位置づけで、将来的には医療や介護、防犯などあらゆる分野・サービスで顔認証や顔情報との連携を検討していると言う。
MaaSが進化・発展すれば利用者の年齢層は広がっていく。それにともない、スマホに不慣れな人でもアプリをつかいこなせるユーザーインタフェースの追求や、個人情報の漏えいを防ぐセキュリティー機能の強化が今後の重要な開発テーマになっていくだろう。
MaaSが拓く「デジタル未来都市」もまたエンジニアにとっての活躍の場となるはずだ。
著者 渋谷和宏
1959年12月、横浜生まれ。作家・経済ジャーナリスト。
大正大学表現学部客員教授。1984年4月、日経BP社入社。日経ビジネス副編集長などを経て2002年4月『日経ビジネスアソシエ』を創刊、編集長に。2006年4月18日号では10万部を突破(ABC公査部数)。日経ビジネス発行人、日経BPnet総編集長などを務めた後、2014年3月末、日経BP社を退職、独立。また、1997年に長編ミステリー『銹色(さびいろ)の警鐘』(中央公論新社)で作家デビューも果たし、以来、渋沢和樹の筆名で『バーチャル・ドリーム』(中央公論新社)や『罪人(とがびと)の愛』(幻冬舎)、井伏洋介の筆名で『月曜の朝、ぼくたちは』(幻冬舎)や『さよならの週末』(幻冬舎)など著書多数。また本名の渋谷和宏の筆名では『文章は読むだけでうまくなる』(PHP)、『IRは日本を救う』(マガジンハウス)、『知っておきたいお金の常識』(角川春樹事務所)など。
TVやラジオでコメンテーターとしても活躍し、主な出演番組に『シューイチ』(日本テレビ)、『チャント!』(CBCテレビ)、『Nスタ』(TBS)などがある。